11.ドルフと使用人
「痛っ!」
エディンは、とっさにニレナネズミをはたき落としていた。
黒い塊がぽとりと音を立てて床に落下する。ネズミは驚いたように、一瞬動きを止めたが、伸びて来たエディンの手をすり抜け、先程音がしていた戸棚の裏へ逃げ込んで行った。
「待て!」
……と言っても待ってくれるはずはなく、ネズミの姿は見えなくなってしまった。
「ううう。またしても」
エディンは、寒さと怒りでブルッと震え、鼻の上にしわをつくりながら、風呂へ飛び込んだ。噛まれた左脇腹に、ニレナの歯型が赤く残っている。ゴシゴシとこすっても消えない。
「あのくそネズミ」
体を洗いながら舌打ちばかりしてしまう。ニレナは、噛みつけばいつものようにほめられて餌をもらえると思ったのか、いきなり叩き落とされてきょとんとしていたように見えた。
――また逃げられた……
自分にも腹が立った。これでネズミ探しはふりだしに戻ってしまった。噛まれてもがまんして捕まえればよかったのだ。
後悔すればするほど、怒りの温度が上昇していく。
いらだちを沈めようと湯を平手で殴りつけた。跳ね上がるしぶき。自分の顔にもかかるが、目を閉じて何回もやる。大理石に覆われた浴室は天井までびしょぬれになった。
「信じられない。あんなネズミがいるなんて。ジーク様もジーク様だ」
国民の信用も高い、王家の世継ぎジーク王子。エディンよりも三歳しか年上でないにもかかわらず、二十一歳とは思えない落ち着きはらった物腰。空色に輝く瞳に、鼻筋の通った顔立ち。王子がにこやかに手を振れば、王族に対する普通の敬意を超えて、心まで陶酔してしまう女性もいそうだ。
――あんなに魅力的な方が凶暴ネズミのことを真剣に。ネズミの為にこの家を訪問するだと?
「やっていられない」
湯気の中で波立つ湯。バシャン、バシャン、と湯を叩いているうちに、むなしくなり、エディンは湯を叩く手を止めた。
問題は山積み。やるべきことは湯を叩くことでなく、王子の訪問前にニレナネズミを捕まえる方法を考えること。王子の訪問に備えて家をきれいにしておく必要もある。使用人を雇わなければならないのでこれからの金銭面のやりくりも考えなければならない。どれもこれもネズミのせいだ。
首まで湯船に沈み、長い息を吐きだすと、急に名案が浮かんだ。
――そうだ。わかったぞ。簡単なことだったんだ。
湯を指ですくいながら、声をたてて笑った。
どうして思いつかなかったのか。あれを捕まえることは簡単なことなのかもしれない。条件さえそろえば、間違いなく苦もなく確保できる。ドルフが後で使用人を連れて来てくれるはずだから、作戦には彼らを使えばいい。悩む必要などない。
気分良く風呂から上がり、湯上りのローブをはおった。
脱衣所内で耳を澄ます。ネズミの音は聞こえない。念のため、脱いだ服に付いていないか調べたが、異常なし。
絶対に捕まえてやる、と心に誓い、普段着に着替えたエディンは浴室を後にした。
ドルフが人を連れてくるにはまだ時間がありそうなので、今のうちに、少しでも来賓用の部屋を掃除しておこうと思った。
父が死に、にぎやかだったこの家からすべての使用人を引き払って数年。母と妹の三人でここを守って来た。三人で暮らすには大きすぎる屋敷の中で、普段使われている部屋は限られており、来賓用の部屋など、久しく風を通していない。知らないうちに屋敷内はすっかりネズミのすみかになってしまったらしい。
ネズミは許せないが、こういうことがない限り、使わない部屋の掃除などしない。家がきれいになっていいこともある、と思うことにした。次々と窓を開け放てば、入ってくるのはここちよい春の風。
城下町の一角にあるこの家は、外からの見た目は父親が生きていた時と変わらない様相。町中にしては広い敷地は、石で作られた高い塀にぐるりと囲まれ、内側には塀に沿って隙間なく背の高い木が植えられており、中への視界を遮っている。
塀の通りに面した真ん中付近に、頑丈な鉄門が正門。ガルモ伯爵家を示す二枚の交差する羽をかたどった紋章が刻まれたこの大きな鉄門からも、開いた時しか中は見えないので、木々の枝の間に見え隠れする、三階建ての大きな建物の中が酷く荒れていることは、ほとんど知られていなかった。
エディンが廊下への扉もすべて開け、空気の淀んだ室内に新鮮な風を入れていると、門戸につけられている鐘が、来客の訪れを告げた。
建物中央にある正面玄関から庭へ出て走る。玄関から通りへの道は、広い庭を二分してまっすぐ鉄門に伸びている。庭は、昔は柴を刈り込んできれいに手入れされていたが、現在は石畳みの通路以外はひざ丈ほどの雑草が生い茂り、廃墟のように見苦しい。
昼間に王子が訪問するなら、ここも手入れしないといけない、と思いながら、エディンは通りに面する鉄門を開けた。
門の外には、ドルフが見知らぬ男二人を連れて待っていた。
「ドルフさん」
エディンが礼を言いかかると、ドルフが遮って、いきなり腰を折り、頭を深く下げた。
「エディン・ガルモ伯爵様、お求めの、使用人となる男たちを連れてまいりました」
ドルフの態度に、エディンは目を丸くした。
「どうなさったのですか」
エディンはそう言ってしまってから、言い方がまずかったかと言い直した。
「お越しいただきありがとうございます。自分の方が後輩ですし、伯爵家とは今は名ばかりですから、いつもと同様にお願いします」
エディンの言葉にはかまわず、ドルフは話を続けた。
「こちらの黒髪がバイロン、そちらの背が高く赤毛の方がレジモントでございます。どちらの男も素性ははっきりしておりますので、ご安心ください」
紹介された男たちは、型にはまったように、礼儀正しく名乗ってお辞儀をした。
バイロンは、黒髪を後ろへ撫でつけており、広い額が全開でレジモントよりは年上に見える。年齢はわからないが、三十代半ばから四十前ぐらいか。バイロンよりもこぶしひとつ分ほど背が高い、赤毛のレジモントの方はまだ二十代後半ぐらいのようだった。彼の赤毛は適度に段をつけて整えられ、清潔そうで、大きな茶色い目の色は明るく輝き、女性にもてそうな感じがする。二人とも、貴族の家で普通にみかける、燕尾服のような濃い緑色のお仕着せを身につけていた。
ドルフは男たちに命令した。
「伯爵様に失礼のないように」
急に礼儀正しくなった職場の大先輩に、エディンは礼を言う事をうっかり忘れそうになった。
「ドルフさん、ありがとうございます」
ドルフのくるっとした丸い目は、いたずらっぽく光り、驚くエディンを楽しんでいるように見えるが、彼は丁寧な態度は崩さず、黒髪のバイロンが持っている大きな四角い箱を示した。
「ご所望の小動物用の檻でございます。では、今夜またお会いしましょう。この男たちの今日の活躍を、仕事の合間に聞かせてください」
「ドルフさん、あの……」
「父が先代の伯爵様にお世話になったと申しておりました。檻は父からの贈り物でございます。代金は要りません。詳しいお話は後でいたします。ではこれで、私は失礼します」
ドルフは、エディンに再び礼をすると、さっさと背を向け、一人で歩いて帰ってしまった。
エディンは、ドルフが町の建物で見えなくなるまで眺めていたが、すぐに現実に戻った。彼が置いて行った二人の男はその場でエディンの指示を待ち続けている。エディンは男たちを中に入れ、鉄門を閉めた。
建物の正面玄関へ向かって歩きながら、彼らに話しかけた。ここで舐められないように、エディンはできるだけ当主らしく話すことにした。
「さっそく仕事をしてもらう。仕事の説明は受けているか?」
「伯爵様のお手伝いをするようにとうかがっておりますが、細かいことまでは存じません」
赤毛の方が返事をした。
「そうか、仕事は雑用だ。室内のことだけでなく、手が空いたら、庭の手入れもやってもらいたい。この屋敷は、人手が足りなくて、庭も見てのとおりだ。ドルフさんから聞いているだろうが、私は昼間は寝ていて、夜はいないから、なかなか家のことができない。二人には頼みたいことが山ほどある。ところで……」
エディンは、玄関扉を開け中に入った。男たちを居間に案内した。
「この部屋でまずは歌ってもらう。この部屋が駄目なら別の部屋だ。歌が得意なのはどちらだ」
「歌……でございますか?」
檻を抱えているバイロンが、不思議そうに瞬きした。赤毛のレジモントの方も、エディンの顔を横から見て、疑問符が頬に浮き出たような顔になっている。
「バイロンと、レジモントはどちらが歌がうまいのか? 『いとしのメレン』という歌に出てくる名前を、ニレナに変えて歌ってほしい」
二人の男は、主人の初めての要求に、顔を見合わせた。