菜宮雪の空想箱

3.ジーク王子の願い(1)



 ジーク王子の政略結婚の相手、隣国キュルプ王家のニレナ王女がこの国にやって来る日が近づいていた。ニレナの十八歳の誕生日に、ここ、アローブ国の王城で結婚式が執り行われることになっている。
 式の日は、あと十日後に迫り、花嫁を迎えるアローブ城内は、落ち着かない雰囲気に包まれていた。
 

「あと十日……」
 夜勤を終え、朝の肌寒さを感じる中、自宅へ向かって歩きながら、エディンは、一人で微笑んだ。
 連日、花嫁の部屋に運び込まれる荷物の数々を見ていると、本当にジーク王子に花嫁が来るのだと実感できる。
 いよいよジーク王子が結婚。考えただけで心が躍る。
 ネズミのニレナはどうなるのだろう。そして、その存在を知った本物のニレナ王女は。ジーク王子の初夜は、はたしてうまくいくのか。
 いろいろ想像すると、口元が勝手に弛んでしまう。それだけを楽しみに、今日までがまんして、仕事を続けてきた。初出勤してから、すでに半年以上が経過。
 ドルフに、なんだかんだと言いくるめられて、ずるずると仕事を続け、今日も出仕した。
 
 ――あと少しで、こんな仕事やめてやる。あんな変な王子を守る仕事なんて、もうやめるんだ。これで未練はなくなる。やっとやめられる。

 希望に包まれたエディンの足取りは軽い。自然に鼻歌が出ていた。
「いとしの姫ニレナ〜 この花束を大好きな君にぃ〜」
 ――あ。 
 歌いかけて止めた。
 ――この歌。
 苦笑する。無意識に歌っていたのは、毎晩のように聴かされているジーク王子の得意歌。もちろん、この歌の原曲は、いとしの姫は「ニレナ」ではない。王女を呼び捨てにするこんな失礼な歌を誰かに聴かれたかと、周りを見回したが、幸い、通行人は近くにいなかった。
 ふう、と息を吐いて、心の汗をぬぐった。


 その日の夜も、エディンとドルフはジーク王子の寝室の警護を務めていた。いつもどおり、湯あみを終えた王子が、侍女たちを従えてこの部屋に帰って来たので、さっと扉を開け、深く頭を下げる。
「ドルフ、ちょっと話がある」
 王子に呼ばれたドルフは、えっ、と顔をあげた。エディンも何だろうと王子の言葉を待つ。
「ドルフでなくて、エディンでもいい。頼みたい仕事がある。一人だけ中へ入ってくれないか」
「では、エディンが入ります」
 有無を言わさず、ドルフがエディンを指名した。
「ドルフさん……」

 王子と部屋へ入る――鮮やかによみがえる忌わしい記憶に、うらみ声が出そうになったエディンだったが、王子の前でもめているわけにはいかない。さりげなくドルフを睨みつけたが、ドルフは涼しい顔でエディンに近寄り、背中を押した。
「エディンでよろしいですね?」
 ドルフがあらためて王子に確認すると、王子は、にっこりと笑った。
「では、エディン、入ってくれ」
「……あ、あ、あの……どういう御用件で……えっと、その、ドルフさんの方がいろいろと経験があるので、僕、いえ、自分よりもよろしいかと思います」
「ん? 私はどちらでもかまわない。ドルフがひとりで扉の番人をしてくれると言うのなら、エディンが中に入ればいい」
 王子は形のいい唇から、少しだけ歯を見せた。計算されたような美しい王族の微笑み。見惚れていたいような、しかし、その裏にある本心を決して想像させない作られた笑い。
「エディン、来い」
「え……う……」

 助けを求めようと、ドルフを振り返る。彼は、声には出していないが、唇は横に伸び、楽しそうに目尻を下げている。
「ドルフさん!」
 いやです、とエディンは目で訴えたが、ドルフは、手に持っている槍を軽く左右に動かし、早く行けよ、と示しただけだった。


 エディンが中へ入り、しばらく後。
 ひとり扉を守るドルフは、笑いをこらえきれず、頬をひくひくさせながら、喉をクククと鳴らしていた。ドルフは、今日は、耳栓は付けておらず、手の中で握りしめている。
 いつものジーク王子の歌が聞こえてきて、その直後、室内からエディンの悲鳴が。何が起こっているのかを想像するとたまらない。大声で笑いたくなるのをこらえるのに汗が出る。
 ドルフは、こらえすぎた笑いで出てきた涙を指ではらった。
 エディンの泣き声に近いひっくり返った声と、王子の明るい笑い声が、扉の向こうの廊下まで届いていた。
  
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