22.疑い
赤くなったり青くなったりを繰り返すエディンとは対照的に、ジーク王子はどこまでも取り乱すことはなかった。ついに医術師が折れると、エディンも驚くほどの魅力的な笑顔を見せた。
「ロムゼウ、では、そういうことでよろしく頼む。明日から毎日ここへ診察に来てくれ。くれぐれも内密にしろ」
ジーク王子は要求が通ると、医術師に出て行くよう命じた。
不満たっぷりの顔で出て行った医術師の足音が消えると、王子はほっとした様子でエディンに笑いかけた。
「エディン、ありがとう。王女を守るには嘘をつくしかなかった。座っていいぞ」
王子は王女の眠る寝台の端に腰かける。エディンは勧められた木製の椅子にのろのろと腰を落とす。
「疲れただろう。もう夜更けだ。おまえは怪我をしているから、隣の居間のソファに横になればいい」
「いえ、私は廊下へ戻ります。こんな用心の悪い晩に、見張りを一人にしておくわけにはまいりません。怪我と言っても片手は使えます」
「警護のことなら心配する必要はない。城内の点検がすべて終わったら、手の空いた兵をおまえの代わりにここへ回してもらうように、先程の連絡の者に命じておいた。今廊下にいるのはドルフ一人だけだが、そのうち応援が来るはずだ」
王子は、王女の頬に手を触れ、完全に眠っているのを確認すると声をひそめた。
「いいか、エディンおまえの怪我が回復するまでは、本来の仕事のことはドルフにまかせておけばいい。おまえはしばらくこの人を一日中見張っていてほしい。それがこれからの仕事だ。当分は自宅へ帰すことはできないからそのつもりで」
「えっ……ここで一日中でございますか」
「そうだ。今夜は私がこの寝室で一緒にいるから、おまえは居間にひかえていればいい。昼間、私が留守にする間は、おまえはここでずっと、王女が勝手なことをしないように監視しろ」
「ニレナ様を監視……」
「監視だけでなく、彼女を守らなければならない。もしも賊の仲間が、彼女が生きていることを知ったら、やつらは確実に刺客を差し向けるだろう。私が留守の間は、寝室の鍵を内側から二重にかけて、決して外から誰も入れず、彼女をそこから出すな」
「それならば、監視役はドルフさんの方が適任かと存じます。刺客が来るかもしれないなら、怪我をしている私では務まりません」
「エディン、私も無傷のドルフの方が警護としてはふさわしいと思う。だが」
王子は、さらに声を小さくした。声はほとんど空気が入って聞こえにくい。エディンは椅子ごと王子のすぐ前へ移動し、少し身を乗り出した。
「どうしても引っかかるのだ。誰が小姓の明かりを消したか。小姓は死んだらしいから状況はわからないが」
それはエディンも不思議に思っていたことだった。
中庭で突然消えた明かり。渡り廊下の燭台なら、物陰に潜んでいた賊が合図で一斉に吹き消したと考えられても、小姓が手に持っていた燭台はどうやって消したのか。
吹き消す為に近づけば、小姓が気がつくはず。一瞬で暗闇になったとすると、小姓の燭台が、後ろからいきなり襲われた、と考えられるが、彼のすぐ傍には、エディンたち三人がいた。
すべては一瞬で。
少なくともエディンはあの時、誰の姿も見ていない。ドルフが足を止めて注意をうながしたことに気をとられていて、背後から誰かに襲われるかもしれないという可能性のことなど頭になかった。
「エディン、おまえはどう思う?」
エディンは王女の顔を見た。よく眠っているようだ。こんな話は王女に聞かれない方がいいのではないかと思ったが、王子はそういう懸念は抱かないらしい。
「おかしいことばかりだと思わないか? あまりにも賊たちは要領よすぎだ。そう人数がいたわけでもないのに、城の裏門を突破し、中庭まで簡単に侵入するとは絶対にありえない。しかも、私が通るのを知っていたかのように襲ってきた」
「それは……もしかすると、城内に裏切った者が、賊と通じていた者がいる、ということなのでしょうか」
エディンがおそるおそる思ったことを出すと、王子は、たぶんそうだろう、と軽くうなずき、考え込むように顎に手を当てた。
「もうひとつ重要なことがある。おまえの怪我は槍の柄で突かれたものかもしれないのだろう? ロムゼウは、はっきり槍の柄とは断言しなかったが、剣の傷ではないのは明らかで、私も槍の柄にやられたように見えた。明るくなった時にドルフが手にしていたのは――」
「槍……」
エディンは、ごくり、と空気を飲み込んだ。
「だから、おまえが王女の見張り役だ。おまえの代わりにドルフをここへ入れるわけにはいかない」
確かにそうだった、とエディンは場面を思い起した。汗が冷たく変わる。王子は声を殺して慎重に言葉を選んでいる。
「私が言いたいことがわかるか、エディン?」
エディンは肩がさらに痛くなった気がした。いきなり与えられたあの痛み。槍の柄で突かれたような傷跡。
そんな、と首を横に振った。
「ドルフさんが僕……じゃなくて……私を襲うなんて」
「静かにしろ。ドルフに聞かれてはならない」
「あの人がそんなことをするはずは」
うっかり声が大きくなってしまったエディンを、王子は制した。
「私は現在わかっている情報を出しただけだ。なにもドルフがおまえを攻撃したと決まったわけではない。ただ、彼が手にしていたのは槍、王女が手にしていたと思われるのは王家の剣だったことは事実」
「信じられません。ドルフさんが賊の仲間なんて」
「彼が賊を城内に入れたと決めつけているわけではない。彼は真っ暗になった中庭で、私に手持ちの剣を貸してくれた。もしも彼が賊の仲間で、私を殺すつもりだったなら、そんな小細工は必要なかっただろう。ドルフなら、隙を見て私もおまえも小姓も殺せた。だが、彼は私を殺さなかった」
「では、ドルフさんは賊の仲間ではないんですよね?」
希望を託した声になったエディンだったが、王子は暗い声で返した。
「そう思いたいが、わからない。ただこの状況では彼は信用できない。エディン、おまえは骨折するような怪我を負った。だから私はおまえの怪我に触れて確かめたのだ。本当に骨折しているのかどうか、自分で体を傷つけて、賊にやられたふりをしているかどうか。女性一人も運べないほどの重傷を負ったふりをして、怪我人を大げさに演じているのかと思った」
エディンは王子の言うことに驚いて瞬きした。
確かに。
この部屋へ来て、王子はまずエディンの傷を自分の目で確かめていた。上着を脱がせて、包帯がまかれた後は、傷に触れ――王子はエディンを疑っていたから……
エディンはぶるぶると首を横に振った。
「わ、私は、そのような大それたことは考えてもいませんでした。これは自演ではなく、本当に誰かにやられたのです。本当に、本当に、死ぬかと思ったのです。ジーク様に守っていただいて私は今生きているのです」
本当です、本当です、と繰り返すエディンに、王子の声は優しかった。
「わかっている。その怪我は自演では無理だ。あらかじめ賊の仲間と打ち合わせてあって、おまえは計算通り怪我をしたと考えることもできるのだが」
「ジーク様! 違います!」
「静かに。あの時、おまえは私のすぐ前にいたと思う。本当におまえは賊にやられて殺されかかっていた。おまえはおそらく賊の仲間ではない」
エディンはほっと息を吐いた。つい、向きになってしまったことが恥ずかしい。王子は弛めていた口元を再び引き締めて言った。
「だが、ドルフはどうだ? あの時のおまえの立ち位置は私は把握できていたが、ドルフがどう動いていたのかは不明だ。彼は私に剣を渡すとすぐに離れた。それから彼の行動はまったくわからない。彼はかすり傷ひとつ負っていない」
王子はじわじわと追い詰めるように話を進めていく。エディンは、考えたくもない可能性に、瞬きを頻繁に続けるだけだった。
「ドルフが持っていたのと同じ武器でやられたような傷をおまえは負っている。これはひとつの手がかりだと思う」
王子は陰鬱な目付きをしながら、栗色の長い髪をかきあげる。
「エディン、そろそろ眠ろう。明日になればもう少し情報が入ると思う。明日から一日中、ここで監視をしてもらうから、今のうちに休んでおけ。おまえの他に誰にも頼めないのだからね。彼女の事をどうしても秘密にしたい。これ以上彼女がここにいることを知っている人間を増やすことはしたくない。わかるだろう? この城内には裏切り者がいる。誰も信用できない」
王子は立ち上がると、王女の血で汚れてしまった服を脱ぎにかかった。エディンは、失礼します、と退室しかけて、あっ、と足を止めた。
――そういえば、ニレナネズミのことが。
「ジーク様、仕事をいただけるのはありがたいのですが、お預かりしたあの……ことですが、私が家へ帰らないとどうしようもありません。一日中ここにいるのは無理でございます」
一度自宅へ帰って、あのいまいましいネズミを捕獲できたかどうかを確かめなければならない。
難しい顔をしていた王子は、愛しいネズミの話題に急に表情を弛めた。目尻が下がり、白い歯が唇からのぞく。
「ああ、そうだったな。私も気が動転して、すっかりあの子のことは忘れていたよ。朝になったらドルフをおまえの家に遣わすことにしよう。おまえは当分帰宅できないから、それをおまえの家族に伝えるついでに、あの子の様子も見に行ってもらうことにする。残念だが、これでは私は外出できそうにない。ドルフにまかせよう」
エディンは、下を向いたまま、小さく、はい、と返事した。ニレナネズミの捜索のことを頼めるのはドルフしかいないのだ。彼が賊の仲間かもしれなくても。
エディンは王子の寝室の隣にある居間のソファに横になった。ドルフの人のよさそうな笑顔が、閉じたまぶたの裏に浮かぶ。彼がやったかもしれない傷がうずいてなかなか眠れなかった。
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