葉桜の展望台で



5 .

 車を運転している彼はずっと無言だった。動き出してから四十分近く経っても車は走り続ける。気まずさのあまり勝手にカーラジオをつけたが、早口のDJの言葉が頭に入ってこない。
「どこへ行くの?」
 沈黙に耐えきれず聞いてみる。
 車は町を抜け、田舎の国道をひたすら東へ向かって走っていた。
「時間が気になるか? やっぱり待ち合わせ相手がいたんだな。そいつに連絡して今日は会えないと伝えてくれ」
「勝手に勘違いしないでよ。私は誰とも待ち合わせなんかしてない。疲れていたから定時退社しただけ。信じてくれないんだ」
「信じたいさ……本当に亜来に新しい男ができたのだとしたら悪夢だ。今まで考えたこともなかったよ。亜来が俺を捨てる日が来るなんて」
 彼は悲しそうにそう言うと再び口を閉ざした。
 ――私は純也のこと、捨ててないよ。少しだけ距離を置いてみたかっただけで。
 車内の空気が重い。
 彼がこんな反応を示すとは思いもしなかった。勝手にメールを切ってしまった私が浅はかだったのかもしれない。だけど、彼の家でのことは、どうにもすっきりできない。
 彼のご両親と初顔合わせだからと思って、精一杯がんばってきれいにしたつもりだったのに。ワンピースも新品を買って。髪も一生懸命整えて。それなのに、着ぐるみ試着会で脱ぎ捨てたワンピースはしわになり、髪の毛はくしゃくしゃ。楽しそうな人々。私だけが話題に乗れない着せ替え人形。

 やがて車は右折し、つづら折りの山道に入った。道幅は広くはなく、カーブで中心ラインから車がはみ出てしまうことがある。この舗装道路を下ってくる対向車がほとんどないことがありがたいと思える道だった。この中途半端な狭い道路、なんとなく見覚えがある。
「ねえ、もしかして、この道」
「どこへ向かっているかわかったか?」
 車は坂道をかなり登ったところで、道の脇にある展望台駐車場へ入った。
 ああ、あの場所だ。
 三十台ほど駐車できるこの場所を囲むように、樹齢五十年ぐらいと思われる大きな桜の木が何本もある場所。昔、ここで彼とお花見をしたことがあった。五月の下旬の今は、桜の枝先には青々とした葉が茂っている。
 私たちは車を降りて葉桜の枝の下をくぐり、木製の手すりが付いた展望デッキに立った。はるか下に、今登ってきた車道が切れ切れに見えている。そのずっと向こうには岩があちこちに浮かぶ海。下から吹き上げる海を渡ってきた風が私たちの髪を包む。
 彼の横顔を盗み見ると、今は怒っている感じはせず、ひどくさみしそうに見えた。彼が眺めている西の空は、雲に隠された沈みゆく太陽が、空の一部を赤く染めている。
「残念。今日も夕日は見えなかったか。気分的に浮上したくて、ここから沈む夕日に慰めてもらおうと思ってはるばる来たのに」
 ――それは、私が気分を暗くさせたってこと?
 彼を怒らせるかもしれないような質問は飲み込んだ。彼のさっきみたいな怖い顔は二度と見たくない。
「前に来た時も厚い雲がかかっていて日没は見られなかったよね」
「あの時はお花見の団体がいて騒がしかったよなあ。今日は誰もいなくて静かでいい。俺たちだけの貸切だ」
「うん……」
 ――あれ? 機嫌なおったのかな。私たち、お互いのことを怒っているはずなのに、普通に会話してるよ……。
 展望台からはるかな海を臨めば、人の小ささを思い知らされる。水平線の果てにどんどん進めば、その先には映像でしか見たことがない世界がいくつもある。そう思えば、小さな世界に住む私たちの心の問題など些細なこと。さっきまで激怒していた彼も、今はそんな気持ちなのかもしれない。
 ここに来るのは何年ぶりだろう。風景は前に来たときとほとんど変わっていない。展望台のベンチが新しくなっているぐらいで。
 海に沈む夕日が臨めるお花見スポットとしてネットで紹介されていたこの場所に初めて来たのは、確か、彼が社会人になって車を買った年だったと思う。その時、ちょうど桜が満開で――
「きゃっ!」
 後ろからいきなり抱き締められた。
「亜来」
 彼の太い腕が私の体に回り、吐息が耳の後ろにかかる。彼はもう一度私の名を呼び、腕に力を込めた。
「こんなところで」
「誰も見てない」
 身をよじって後ろから絡め捕られている向きを変えようとしたら、唇が重なってきた。
「っ」
 身動きできないほどの力で強く抱き寄せられ、息ができない。苦しさのあまりもがいて唇をはずした。
「やだ、やめて」
「亜来」
 彼は、私の顎に指先で触れ、自分の方を向かせた。彼のもう片方の手は私の腰に回っている。真剣すぎる彼が怖い。
「生きていてくれてよかった。返信がなくて、ここ二、三日、悪いことばかり考えてしまったじゃないか。事件に巻き込まれたのかもしれないって」
 ――そういえば。
 一週間ぐらい前に、同じ市内で女性連れ去り傷害事件が複数発生したばかりだった。
「連絡が取れなくなって、俺は毎日地獄だった。連れ去りじゃないとすると、亜来の心が他の男に向いてしまったのかもしれないと疑いも湧いてきてさ。何度もメールを送っても、亜来は返信をくれない。どう考えてもいいことはなさそうだと思えてどうしようもなかった」
「だから、浮気するような人なんていないって言ったじゃないの。そんな軽い女だと思っていたわけ?」
 抗議のまなざしで彼を睨んでやったが、彼は私の髪をやさしく撫でた。
「そうだよな、亜来が俺を裏切るはずがない。返信してこなかったのは、やっぱり俺の家族を気に入らなかったってことだろ? 食事会が終わった途端、手のひらを返すような態度をとられるなんて、他に無視されるような理由が思いつかない」
 めまいがする。
 彼は確かめるように私の顔を覗き込む。
「俺の家族がはしゃぎすぎたことは俺だって認める。あいつらを許してやってくれ」
 私は下を向いたまま黙っていた。まだ彼の腕の中にいる。逃げられない。
「俺はあんな家族なんか、縁を切ってもいい」
 家族を擁護する発言をしつつ、縁を切ると言う。わけがわからない。
 私の中で静まりかかっていた怒りが再び煮え始めた。食事会のストレスが頭をもたげる。
「そんな、なにを言っているのよ。そんなことできるわけがないでしょ。大切なご家族なのに。私に嘘をついてまでご家族の付き合いを大切にしていたくせに。どうして私に嘘をついてまでナチュラルの活動をしていたのよ。家族に頼まれたってひと言でも先に言ってほしかった」
「ごめんな。前にも言ったけど、本当に一回きりのつもりだった。メンバー内でインフルエンザが何人も出て、人が足らないからどうしてもって、公演前日になってから急に礼也に頼まれてさ」
「で、そのままズルズル手伝ってるわけ?」
「また来いって言われると、断るのが申し訳なくなった。おやじもおふくろも、俺が参加したら異常なくらい喜んでいたし、活動そのものがそう多くないから、断る理由がなくて」
「ふーん。あの食事会って、結局、ナチュラルの勧誘目的だったんでしょ? ああやって誰かを家族の食事に呼んでは活動をせっせとアピールしてるってわけね。あんなの、マルチ商法なんかの勧誘と同じじゃない。おいしいものを食べさせておいて会員になるよう誘導するなんて。そうだとわかっていたら、私は食事会になんか行かなかった」
 彼は驚いたように眉を動かした。
「勧誘? だから怒っていたのか。俺はそんなつもりはなかった。着ぐるみで大喜びしているあいつらの態度が気にくわなかったんじゃないのか」
「勧誘目的以外の何があったのよ」
「俺はあいつらの活動宣伝の為に食事会に呼んだわけじゃない。ナチュラルの話題が出ることは想定していたけど、礼也の部屋まで行ってナチュラルの説明を本格的にすることになるとは思わなかったんだ」
 彼の唇が私の瞼に落ちてくる。私は彼の胸板を両手で押して、密着した体を少しだけ離した。
「や……ごまかさないで。自分だって喜んで活動に参加しているんでしょ。私が着ぐるみを着せられているのをうれしそうに見ていて、その後、一時間近く説明されて私が困っていても、助けもしなかったじゃない」
「あいつらはしゃべり出したら止まらない。ああなると俺の言うことなんか誰も聞いてくれない。つらい思いをさせて悪かったな」
 彼の指が私の髪の間に埋まり、いとおしそうに髪の中を滑っていく。彼に食ってかかっている言葉とは裏腹に、彼の指が心地いいと思ってしまう自分がいる。
「やめて。純也は卑怯だよ」
「何を言われても俺の気持ちは亜来にしか向いていないから」
 ずるい。普段はこんなこと、絶対に言わないくせに。
 見上げれば、まっすぐな彼の瞳が刺さってくる。
「何よ」

「亜来……愛してる。結婚してほしい」

 心が震える。運命を左右する大切な瞬間に鼓動が高まっていく。私は彼からのこの言葉がずっとほしかったのかもしれない。でも。
 ――今、それを言うの?
「そ……そんな大事な話を、取ってつけたように言わないで」
「俺は、亜来に俺の家族を見せて、ああいう家族だと納得してもらった上で、結婚の話を出そうと思っていた。だから家へ招いた」
 彼が再び強く抱きしめる。広い胸板。八年間におよぶ付き合いの中、何度この腕の中で幸せな時を過ごしたことだろう。
「亜来が俺の家族を受け入れられないなら結婚は無理かもしれないって考えていたけど、実際にメール連絡を絶たれたら、もうたまらなくてさ。俺の家族のことなんかどうでもいい。もしも、俺の家族と亜来のどちらかを選べと言われたら、俺は亜来をとる」
 私の背に回されている彼の腕がさらに強く、私の体に巻きついてくる。
「そんなこと言ったら、ご両親も礼也さんも悲しむよ」
「かまうもんか。俺んちは、仲良し家族でもなんでもない」
 彼はそのまま動かず、ずっと私の体を捕まえていた。
 ――暖かい……
 こうしていると、自分が彼に何をしてほしいのか、いよいよわからなくなってくる。
 幸せ。何も考えずにこうしていられるなら。
 でも、このまま流されてしまっていいのだろうか。
 私はどうすべきか。決められるのは自分しかいない。

 長い沈黙の後、彼は腕をほどいた。私たちは、無言で展望台の端に据え付けられている木製の長椅子に並んで腰かけた。すぐ隣に腰かけた彼は、私の手を取り、手首に唇を押し当てた。
「ごめん、手首、まだ痛いか? 待ち伏せした上、強引に引っ張って亜来を怖がらせるなんて、俺もどうかしていた。さっきみたいなことは二度としない。約束するよ」
 彼の暖かな唇の感触。手首からサワサワと伝わる波。女としての自分がそこにいる。
 今は、彼のこと、怖くない。つかまれたときは本当に怖かったけど。
 隣に座る彼の顔を見る。彼の目はずっと遠くの風景を追っていた。
「今日は、亜来にどうしても話したいことがあったんだ」
「まだ他に話があるの?」
「ここからが本題。実はね、おやじは再婚でさ、俺と礼也の母親は違う。俺の本当の母親はおやじに殺された。俺はおやじなんかずっと大嫌いだった」
「えっ!」
 さらっと言われて、自分の顔がこわばったのがわかった。
 少し強めの風が吹き、展望台付近の桜の枝が音を立てて揺れた。




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