「俺、牧師失格」
『立派な牧師になれるといいね。あたしが結婚する時は、式の立会人をやってね? 約束よ』
数年付き合った彼女が、別れ際に涙声で俺にそう告げてから早四年。
『ちゃんと牧師になれたらな』
俺は半分冗談で返したが、今、あの時の言葉が現実になろうとしている。月の上で。
白銀色の宇宙服を着て並ぶ新郎新婦。そして同じく宇宙服姿の俺が立会人として式を進めている。
四年前の当時、二十八歳だった俺は、立ち上げたコンピュータ会社の経営がうまく行かず、資金繰りに追われる日々を送っていた。二つ下の彼女、アニーとの結婚を考えられる状況ではなくなり、世の中に絶望して会社を手放し、彼女に別れを告げ、神に救いを求めた。
俺でない男との結婚が決まったアニーが望んだのは、月面での結婚式。式の立会人に、あの日の約束通り俺を選んだ。月への費用は相手の男が全額負担してくれると言う。
月への旅行が可能になって数年経つが、一般人には関係のない遠い世界の話だと思っていた。たった一回の旅行で普通の二階建ての家が一軒買えてしまうほど高額。彼女の夫になる男はとんでもなく大金持ちなのだろう。
俺は、正直なところ気乗りしなかった。アニーとの約束などすっかり忘れていて、久しぶりに彼女の方から連絡が来たときは驚き、即座に断ろうとした。しかし、月で式をするつもりだと言われ、未知の世界への夢にあっさり負けた。今を逃せば、貧乏な俺が月へ行くチャンスはおそらく生涯巡ってこない。もちろんそれだけでなく、久しぶりに彼女に会ってみたかったという気持ちも心の奥から覗いていた。きっとこれは神のお導き。
俺は、宇宙港で、アニーの夫となるビルと初めて会った。
ビルは、どうってことない、どちらかと言えばさえない男だった。顔は四角く、唇はだらしなくいつも少し開いている。頭髪も額の上は三十という年齢の割には薄い。しかも背が低く、普通の女性の平均程度で決して大きくはないアニーが横に立っても、二人の身長差はほとんどない。
小顔でスタイルもいいアニーが、どうしてこんなパッとしない男を選んだのか。やはり金? こんなヘラヘラしたやつは、きっと金に困ったことなど一度もないに違いない。この男、金を貸してもらえない辛さなど一生知ることもなく生を終えるのだろう。
俺は思ったことは顔に出さず、にこやかにビルと握手したのである。俺は神聖な仕事を選んだ人間だ。この男のことを好きになれなくても、人を見た目だけで判断するような堕落した感情は捨てなければいけない。
『嵐の大洋』と呼ばれる月の海の一角が、彼女たちが選んだ式場だった。地下の開発区から貸し切りの月上観光バスに乗り、俺たちはそこへたどり着いた。
宇宙服に着替えた俺たちは、声のないほぼ真空の世界で、ヘルメット越しの電波を通した愛の誓いの儀式を執り行った。
花嫁のベールも、指輪の交換もない。岩と砂しかない月の荒野で永遠の愛を誓うだけの儀式。雲のない大地に降り注ぐ容赦ない太陽が酷く目が痛い。ヘルメットで眩しさは軽減されてはいるが、それでも自分が照り焼きになっている気分になる。外気温はおそらく摂氏百度を超えていると思われる。宇宙服のおかげで死なずにいるが、こんな場所で結婚式をやりたいと思うこと自体どうかしている。そう思っても、これは仕事だ。すぐ横にあるバスの中には何人もの親族が乗っており、それぞれが窓に張り付いて俺たち三人を凝視している。手抜きはできない。
俺は地球の教会での結婚式と同じように進めた。いつものセリフを出す。
「この二人の結婚に反対する者はいませんか」
反対言葉が聞こえてくるはずもない。宇宙服でバスの外に出ているのは三人だけ。バスの中で声が上がっていたとしても聞こえはしない。
「反対はありませんね? では、二人は夫婦と認められました。おめでとうございます」
俺は二人の手を取り、つなぎ合わせてやった。
二人はうれしそうに抱擁し合う。至近距離に止められているバスからいくつものフラッシュが光った。
これで結婚式は終わり。広大な月世界での二人の誓いは神に届いただろうか。地球はここから見るととても青くて大きい。この景色を見ることができただけでも俺は幸せ者だ。
地球に見入っていると、夫との抱擁を解いたアニーが、俺にも抱きついてきた。俺は少し押されるような形になり、よろめいたが、がんばって彼女を受け止めた。
「トーマス、ありがとう。立派な牧師さんだったわ。あなたにしては上出来ね」
「そうか。まだ修行中の身だけどここへ呼んでもらえてうれしいよ」
ごわつく宇宙服がすれ、アニーが俺とヘルメットをコツンと突き合わせた。ヘルメットの中の彼女は半分泣きながら笑っていた。
「アニー……結婚おめでとう」
心を込めて祝い言葉を投げかけた。俺のアニー、幸せになってほしくて別れた愛しい女。
「トーマス、本当にありがとうね、あなたも幸せになって」
「ああ」
いけない。泣けてきそうになった。
すぐそこに彼女の夫となったビルがいる。
彼は何も言わない。船内で彼が無口だと分かったが、気も利かない男らしい。ここで礼の言葉一つも出ないとは。
アニーがこんな男と。
アニーから目を反らし、風景を見ると、半月になって光る地球が目に入った。
白い筆でこすったような雲の間から海と大陸が見える。思ったよりも海は青く、めまいがするほど美しい。
――神よ、お許しください。
俺はアニーを引き離すと、そこにぼんやり立っているビルへ向かって彼女の体を思いっきり放り投げた。地球の六分の一のここでは滞空時間が長い。アニーの体は、ワイヤーを使った映画のワンシーンのように軽々と宙を進み、まともに彼にぶつかり、二人はもつれながら後方へ吹き飛んだ。
白い砂が巻き上がる。
アニーの悲鳴と、ビルの驚きの音声がヘルメット内のスピーカーから入ってくる。
――あの男、無様にひっくり返っていい気味だ。
俺の心に潜む悪魔が笑っている。
「幸せになれよ。畜生が!」
俺は、聖職者にあるまじき負け犬の捨て台詞を吐き、転がる二人――ゆっくりと地面に着地した後、絡み合ったまま小石の上でごろごろとしている――に背を向け、地球に向かって十字を切った。
――神よ。これでも手加減したのです。あの男に飛び蹴りを食らわせたい衝動をこらえました。
祈りを終えた俺は、二人を振り返った。
二人は小さな窪地まで転がり、楽しそうに声を出して笑いながら砂にまみれていた。幸せいっぱい。これ以上ないというほど。宇宙服で顔がはっきり見えなくてもわかる。
よし、せっかく月へ来たことだし、俺も飛び跳ねてみよう。
俺は神に仕えている身。どうせなら神々しく盛大に。バスの中に大勢の見物人もいることだし。
スキップのように飛び跳ねながら月面を歩く。宇宙服を着ているのに気にならず、心まで軽くなった。
足元に注意しながら全力で地面を蹴って飛び上がってみた。
地球にいるときとは全く違う最高の浮遊感。鳥のようだ。思った以上に高く飛べる。
そう、俺は月で鳥になったのだ。
猛禽類っぽい鳥に。
俺が向かう先にはいちゃつく二人の姿がある。
そこへ突っ込んでみよう。
ごめん、アニー。少しだけ攻撃させてくれ。一度だけにしておいてやる。
太陽と地球が見ていてくれるから、かっこよく決めてみたいんだ。
俺、牧師失格。
今、全力で俺は飛ぶ。やがて、この足が二人を割り裂いて……
――神よ、罪深き俺をお許しください。
了
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