菜宮雪の空想箱

2.
 ぐっしょりと濡れた衣類を脱ぎ捨て、温かいシャワーを浴びて、ほっと一息。テレビをつけて台風の位置を確認する。すでに台風の端の雲がかかってきていた。
 こんな日に限って今夜は女ひとりきり。四人家族だが、同居している両親は海外旅行に出かけており、まだ数日は帰らず、大学生の弟は都会で下宿しており、普段から家にいない。
「台風さえ来なければ、自由を満喫できる夜になるはずだったのに」
 ひとり愚痴をつぶやきながら、停電に備え、懐中電灯やろうそくなどを用意した。外の風雨は時間と共にさらに強まっていく。遠くで雷の音までする。

 雨戸も全部閉めて――
「ひゃっ!」
 居間の大きな掃出しガラス戸の向こうに、小さな影が。
 ガラス窓に張り付く『それ』。サッシの溝に立ち、体がガラスにピタリとくっついている。大きななめくじではなく。
 はげた頭の部分が、テラッと光っている。
 背筋に寒気が走った。
「あたしに付いてきた? マジでさっきの変なカメ?」
 皿があるから河童か。
「あ、あっちへ行ってよ。あの、えっと……あたし、雨戸を閉めたいんだからね。河童さんだか、宇宙人だか、なんだか知らないけど、ここ、普通の家だから、盗る物なんにもないから」
 『それ』は吸盤のついた片手で、ペタン、ペタンとガラスをたたく。さきほど見た河童と同じやつだろうか。二足立ちの頭からの身長はおよそ二十センチちょっと。甲羅の長いところで十センチほど。カメとは明らかに作りが違う。警察に通報すべきかどうか迷う。

 大きくて丸い二つの目玉がガラスの向こうにある。
 気持ち悪くも、妙に愛らしかったりする。
 どこかで見たと思ったら、あの眼は、ウーパールーパーに似ているのだ。水槽の中で生きるあの妙にかわゆい生き物に。
 しかし、愛らしい生き物を連想させるからと言って、得体のしれない『何か』がここにいていいことにはならない。これは宇宙人かもしれない。地球人を捕食しに来た可能性だってある。
 とにかく、変な生物が窓に張り付いているのはたまらない。
 即、追い払うべし。

 ありえない現象に声を震わせながら、ひきつった笑い顔で応対。
「そ、そんなホラー映画みたいな恰好で目だけかわゆい顔しないで。あんたのおうちは池でしょ。ね? いい子だから帰ってよ。うちを呪わないで。帰ってくれないなら警察呼ぶよ?」
 『それ』は何も言わない。嵐の中、ひたすら窓に張り付き、じぃっ、と友香に熱い視線を送り続けている。水かきがついた手でガラスにぺたりとくっつきながら。
 友香は声を大きくした。
「そこの河童さんか宇宙人さんかカメさんかなんだか知らないけど、なんか用? あたし、雨戸閉めたいから、どいて。さっさと帰ってくれないと、本当に警察に電話するから」
「そんなこと言わずに、僕を助けてください」
「しゃべったー!」
「お願いです、人助けだと思って、中へ入れてください」
「……ちょっと待ってよ。今、人助けと言ったわね? あんた、人なの?」
 小人? 一寸法師? 妖精? それとも、妖怪か。
 『それ』をじっくりと観察した。何度見ても、毛むくじゃら河童にしか見えない。どうやら、窓ガラスを割って中へ入ってくる力はなさそうだ。河童ならばもっと怪力かと思っていたが、そうでもないようで。やっぱり何度見ても河童。
 相手にはどんな能力があるかわからない。ここはなめられないように上から目線の物言いで接することにした。

「あんたさ……なんか、ジワジワくるね。かわいいんだか、気持ち悪いんだかわかんない。いったい何? どう見たって、人間じゃないでしょ。なんで日本語がしゃべれるの」
 丸い大きな目がふたつ。うるおいたっぷりな黒飴に似ている。頭には緑っぽい皿のようにみえるハゲ。体全体は黒に近い茶色の長い毛でおおわれており地肌は緑色。口はよくある絵に出てくるようなくちばしではなく、カエルのような横に長い口。
 怖いけれど、この生き物のことをもう少し知りたい。中は入る力がないならこうやってしゃべっていても大丈夫だろうか。

 『それ』は、友香が考えている間も、繰り返し、熱く懇願する。
「どうか、お願いです、中へ入れてください。僕を助けてほしいのです」
「じゃあさ、あんたが何なのか、教えてよ。ここへ何をしに来たのかも。返答によっては協力してあげてもいいけど」

「僕は河童の王子様です」

「ぶっ……」
 膝の力が抜けそうになる。想定外の返答に、一気に恐怖が薄れた。地球人を捕食しにきた宇宙人のセリフにしては臭すぎる。
「王子様って……あんたさ、それ、どこで仕入れてきた台詞? その皿が冠のつもり?」
「すみません、そう言えばうまくいくと、みんなに言われたので、そう言いました」
 仲間がいるらしい。
「ふーん、みんなって誰?」
「僕の一族です。とにかく中へ入れてください。ここへ来た訳を話しますから」
「あたしをとって食べようなんて思ってないでしょうね」
「僕はそんなんじゃありませんよ」
「あんた、今、自分で河童って言ったじゃない。河童って、人の内臓を引きずり出して食べるって何かで読んだことがあるよ。そうやってあたしを油断させておいて、殺す気でしょ。ごめん、やっぱり入れてあげられない。さっさと池へ帰って」
「冷たいことをおっしゃらないでください。こんなにお願いしているのに」
「うちに用事があるなら、ちゃんと玄関の呼び鈴を鳴らせばいいでしょうに。こんなところでガラスに張り付いていること自体、変なのよ。やっぱり警察呼ぶ」
「呼び鈴には手が届きませんでした。僕はこのとおりの姿なので」
 たしかに二十センチそこそこの身長では手が届かないだろう。もっともな答えに一瞬ひるむが、ここで負けたくない。
「変な生き物が突然押しかけて来たっていうのに、喜んで家へ招き入れるお人よしなんていないよ。バイバイ」
 友香は雨戸を閉めることをあきらめ、シャッ、とカーテンを引いた。目障りな河童はまだガラスの外側に張り付いて何か言っていたが、無視することにした。
 室内へ入って来ないなら、こんな台風の夜に警察を呼んで大騒動にすることでもないだろう。台風が過ぎた明日の朝になってもまだいたら、絶対に通報してやる。
 台風情報を伝えるテレビの音量を上げると、河童の声は聞こえなくなった。



 <前話へ戻る    目次    >次話へ    ホーム