菜宮雪の空想箱

16.

 仕事休みの土日はあっという間に終わり、普通に月曜日の朝が来て、友香は、いつものように出勤の準備をしていた。
 お気に入りのかごバックに昼用のお弁当を入れようと思い、先週から入れたままにしてあった数枚のビニール袋を取り出した。
「あっ!」
 袋と一緒に、三センチほどの黒い石がコロンと転がり出て、じゅうたんの床に落ちた。
 見覚えのある模様。カメにそっくりな六角形を組み合わせたような甲羅。水かき付きの手足が!
 息を引いて、あわてて拾い上げる。
 毛の生えた手足は脱力し、甲羅から延びるようにだらしなく出ていた。別れた日のままの大きさで。
「アリマセ君! しっかりして」
 小さなアリマセの、少し開いた口はパクつくことすらなかった。
「そんな……」
 緑色の頭部の皿は完全に乾燥し、一滴の湿り気もない。
「あんた……いつの間に。こんなところに入っていたら、わかんないよ」
 ダム湖へ行ったのは土曜日。日曜日はまる一日、このバックは自室で放りっぱなしだった。当然、水分はない。彼ら河童が、長時間水分なしでは生きていけないことはこれまでのことからわかっている。
 せめて、声に気が付けば――いや、この小ささでは声も聞こえないだろう。堰堤にこのバックを置いて呼びかけている間に、彼は日陰を求めてここへ潜り込んだに違いない。堰堤のコンクリートの上はやけどしそうな高温だった。あの時は、水面ばかり注意をはらっていて、足元には全く目をやっていなかった。

 アリマセの体はカラカラに乾いており、頭を突いてもピクリとも動かない。
「アリマセ君」
 呼びかけに応じない。
 頬がひきつる。
「あたし……あんたたちが困っているだろうと勝手に思い込んで、ダム湖まで見に行っちゃった。よけいなことだったよね? あたしが呼びかけなければ、あんたはまだ生きていた。あんたが近づいてきてくれたのに、あたし、また見落としたんだよ」
 言い訳ばかり並んでしまう。干からびた河童の死体。
 何を言っても失われた命は戻らない。
「暑かったでしょう? 日陰へ行きたかったよね? 水が欲しかったよね? ごめん、最後の最後まで、気が付かなくて」
 友香はすすり泣きながらアリマセの遺体をティッシュで丁寧に包み、さらにビニール袋に入れた。
 ――今日の夜、公園池に彼を帰してやろう。


 その日、仕事を終えた友香は、日没後の公園池へ立ち寄った。
 アリマセとよく話をした池のふちの木道に立つ。ここでばかげた嘘を楽しんだものだ。彼に対して恋愛感情を持つことはどうしてもできなかったが、彼の冗談めいた嘘話で仕事の疲れを癒されていたことは真実だった。

 かごバックから遺体の入った包みを取り出し、周囲に人がいないことを確かめると、ティッシュの包みをゆっくり開く。
 アリマセは、包まれたままの姿で永遠の眠りについていた。
 友香は水辺にしゃがみ込んで、できるだけ手を伸ばし、アリマセの体を丁寧に水に入れた。
「ほら、あんたの故郷へ帰ってきたよ。あんたが一番安心して眠ることができる場所」
 小さな甲羅がついた体は、甲羅に手足が引っ張られるようにあおむけになり、徐々に暗い水に沈んでいく。手足を動かす様子もなく。
 もしかしたら、水に付けたら息を吹き返すかもしれないと思っていた。しかし、ゲームのように簡単に調子よく生き返ることはない。
 友香は、沈みゆくアリマセに向かって手を合わせた。
「友達になってくれてありがとう。あたしも、あんたに会える日が楽しみだったの。あんたとあたしは違う生き物だから、恋人になることは無理だってわかっていたけど、あんたといて楽しかった気持ちは嘘じゃないよ。あたしは、あんたにひどいことばかりしてしまった。ごめん。今さらだけど、謝ることしかあたしにはできなくて」
 アリマセの姿は完全に池の中へ沈み、見えなくなった。

 ――あたしが殺した。殺してしまったんだ。最悪の形で。
 潤んだ目を閉じて祈りをささげる。せめて、彼が安らかにここで眠れるように。
 ――彼は河童だった。だから、あたしは彼のことを軽く扱ってしまっていたのかもしれない。彼は暑い中、命の危険を冒してまであたしに会いに水から出てきてくれたのに。
 とりかえしがつかない思いが胸を締め付ける。
 友香は唇を噛んで嗚咽をこらえた。
 しばらくしゃがんだまま水面をながめていたが、ふと気が付けば、遊歩道の向こうの方から犬の散歩の人が近づいてくる。いつまでもここでこうしているわけにはいかない。
「あたし、そろそろ現実に戻るね」
 涙をぬぐうと、立ち上がった。
「おやすみ、アリマセ君。あんたのこと、忘れない。楽しい思い出をありがとう」

 公園の土手に付けられた階段へ向かう。アリマセと話をするために何度かここを行き来した階段。通勤路は土手の上を歩くため、今後、用事がない限り、池へつながるこの階段を下りることはないだろう。
 気分がドブ色のまま、重い足を引きずるように歩く。
 パチャン、と水音がしたが、振り返らなかった。きっとカエルが飛び込んだ音だ。
 ――そういえば、彼はカエルをたくさん食べた、と嘘を言ったことがあったっけ。信じそうになったけど。
 一度ひっこめた涙がまた出そうになる。これ以上泣かないよう顔を上げて歩いていった。



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