菜宮雪の空想箱

13.
友香は驚きの息を吸い込んだ。心臓の音が速まる。
「あんた……」

『トモカサン』。

 そう聞こえた。
 
 友香は、子河童が乗った手を水から引き揚げ、顔の前で河童の子を凝視した。
「もう一度発音してみて。あ、発音って言葉、わかんないか。あたしの名前を知っているの? あたしの言葉はわかる?」
 子河童は耳を澄まさないと聞こえないような小さな声で、もう一度「トモカサン」と言った。
 たしかに「友香さん」と。
  河童たちにしてみれば、親切にしてくれる伝説のような人間のことを『トモカサン』と呼んでいるだけかもしれない。それでも、この、生まれてから間もないように思える小さな子にこの名を教えたのはきっと。
 ――やっぱりアリマセ君はまだこの池の中に。移住の約束をしたあの日はなにかの事情があって来られなかったんだ!
 思わず声が明るくなっていた。
「アリマセ君は生きているね? 彼は今、どうしているのかな。彼に会ったら、次の雨の日に友香に会いに来るよう言っておいてくれる?」
 まったく、今まで現れずにどうしていたのか。会えたら質問攻めにしてやろう。あの河童は嘘をついてかわしてしまうかもしれないけれど、それでもいい。こっちも彼をぎゃふんと言わせるすごい嘘を用意して対抗してやる。
「ん? まだ言いたいことがあるの?」
 子河童はなにか言っているが、声が小さすぎて聞こえない。河童を乗せた右手を自分の耳元に近づける。
「えっ、嘘」

 友香は耳元から手をおろし、小さい河童の顔をじっくり観察した。河童の顔はどれも同じに思える。嘘つきの性格も同じなのだろうか。この小さな河童が赤ちゃんだと思って話していたが、そうでもないのかもしれない。
「今、自分がアリマセだって言ったよね? そう聞こえたんだけど、そんな嘘じゃあ、人間はだまされないよ」
 念のため、もう一度、河童を耳元に持っていく。とにかく声が小さい。
「友香さん、僕がアリマセです。信じてください」
「アリマセ君はね、もっと大きい。脱皮前だって、あんたより大きかったよ」
「僕は小さくなりました」
「なんでそんな嘘をつくの。そんなことができるなら、移住のために車を出せなんて言うわけがないよ。この大きさなら、あたしの自転車で全員をその辺の川まで運べたじゃない」
「それはですね、車に乗ってみたくて」
 友香は、むっとして目を細めて河童をにらみつけた。
「なによ。車に乗りたい気持ちはあるのかもしれないけど、嘘だらけでなに言ってるかわかんないよ。アリマセ君の名をかたるのはやめて」
「かたっていません。僕がアリマセです。どうしたら僕がアリマセだと信じてくれますか」
「じゃあ、質問するけど、最初、あたしと会った時、あんた、あたしになんて言った?」
 小さな河童は口を横にひいた。これはきっと笑い顔だ。
 このチビ河童め。なまいきな。困った顔すらできないのか。
「『僕は河童の王子様です』そう言いました。指輪のこともいろいろ作り話をしました。どうです? 信じてもらえますよね? なんでも質問してください」
「たしかにそうだったけど……」
 半信半疑。
 河童は嘘つきだ。
「あんた、本当にアリマセ君?」
「そうだとさっきから言っているじゃないですか」
「やっぱり嘘よね。なんでそんなに小さいの」
「僕らは環境が悪くなると体が縮むんです」
「そんな話、聞いてない。じゃあ、なんであんた、あの日に来なかったのよ」
「ちゃんとあの場に行きましたよ。友香さんが小さくなった僕を見つけてくれなかっただけです。僕は置いていかれたんです。僕が計画したのに、一緒に行くことができなくて、残念で」
「そうだったんだ……って、その手には乗らないよ。それも全部嘘でしょ」
「本当です。僕があなたの車までみんなを誘導しました。僕は後で積んでもらうつもりでした」
「それも嘘と思えてしまうんだけど、どうなの?」
 アリマセは、友香の問いを無視して話し続ける。
「縮みたての僕は、みなよりずっと体が小さかったし、車の後ろにいたんで、わかりにくかったかもしれません。車に乗り込む友香さんに向かって、待って、と何度も言ったのに、聞こえなかったようで」
「あの場にいた……?」 
 友香は態度を軟化させた。あの日、来ると思っていたのは、身長が五十センチぐらいある大人の河童。今ここにいる河童は立ち姿の頭から足まで入れても六センチぐらいしかない。
 小さい。でも話を聞く限り、この河童はアリマセ本人だろう。
 縮む……本当にアリ?
「アリマセ君……ごめん、こんな小さいって思いもしなかった。要するに、あたしが見落としてしまったって話よね」
「この体では大きな声が出ません。気が付いてもらえないとは僕も思っていなかったんで、遠ざかる車を見て、僕は絶望しました」
「あたしだって。あんたに騙されて利用されたような気がして、くやしくって、悲しくって」
「あれから僕は、何度か木の下で友香さんを待ちました。またお話できるかもしれないと思って。でも友香さんは気が付いてくれませんでしたよね。その時は今よりももっと体が小さかったんです。友香さんの小指の爪ぐらいで。脱皮してやっとこうして見つけてもらえる大きさになれました」
「縮むって知らなかったけど、あたしも悪かった。置いて行ってしまって本当にごめんね」
「僕は怒っていません。それよりも友香さん」
「ん?」
「僕も車に乗せてください。僕だけ乗せてもらってないんで」
「お仲間はダム湖へ連れて行ったけど、あんたもそこへ行く? 移住したらここへ戻ることもないと思うけどいいかな」
 アリマセはそれでいいと言う。
「わかった。あそこはね、車を借りないと行けない場所だから、数日待ってくれるなら運んであげるよ」
 置いてきぼりにしてしまった手前、それぐらいのことは手を貸そう。彼の仲間は他にはこの池にはいないと思われる。彼を孤独にさせないためにも、仲間と一緒のところへ連れて行ってあげたほうがいいだろう。
 アリマセはうれしそうに、水かきが付いた両手をふりまわした。
「友香さん、いいんですか? 嘘じゃないですよね」
「なんで嘘つく必要があるのよ」
「いえ、河童の習慣でそう思ってしまいまして」
「だいじなことまで嘘をついてどうすんの。河童って変」
「うれしいなあ、友香さんとふたりきりでドライブなんて」
「ドライブって言葉、どこで憶えたの?」
「もちろん、テレビに決まってますよーん」
 アリマセは上機嫌だった。



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