葉桜の展望台で



6 .

「殺されたって……」
 ――聞き間違い?
 思わず彼の顔を凝視した。
「まあ、正確に言えば、おやじが俺の母親を自殺に追い込んだってことさ。俺が三歳になる直前に両親は離婚したんだけど、その後、いくらも経たないうちに母は首を吊った」
 何の痛みも感じていないような彼の口ぶり。
 ――それって……本当のお母さんは離婚のショックで自殺しちゃったってこと?
 私は彼への質問を飲み込んだ。食事会へ行ったとき、彼は母親似ではないと思ったけど、あの手芸好きのお母さんと血がつながっていなかったとは。
「おふくろっていうか、家にいたあの人、洋子さんって名前なんだけど、おやじが離婚して四年後に洋子さんがうちへ来た。俺が小二の時だよ。礼也が生まれたのはそれから二年後で」
 家庭事情を淡々と語る彼に、私は相槌を打つこともできず、黙って彼の話を受け止めた。
「洋子さんはね、必死で俺の母親になろうと努力してくれていたけど、俺は長い間、お母さんとは呼ばなかった。呼べなかったんだ。本当の母親の顔っておぼろげにしか憶えていないけど、突然家に来た洋子さんが俺の母親ではないってわかっていたから。ある日、怒ったおやじがさ、俺の母親の写真を全部処分してしまったんだよな。昔のことはとっとと忘れろって」
 彼の言葉に苦味が混じる。
「おやじの所業に、当時小学生だった俺は深く傷つけられた。それに、幼かった俺でもなんとなく知っていたんだ。おやじが家を追い出したから、俺の母親は自殺してしまったんだって。おやじは、俺の母親が生きているころから洋子さんとは知り合い同士らしいから、親戚の中にはね、洋子さんが原因で離婚したって思っている人もいる。俺は、離婚前に二人が不倫関係だったかどうかは知らないけど、悪いのは全部おやじだ。亜来の前ではヘラヘラ笑っていたけどね」
 ――つまり、お父さんが浮気をして、純也のお母さんを追い出した? じゃあ、今の着ぐるみお母さんは略奪婚なの?
 失礼な推測は口にしない方がいいと思い、驚きだけを言葉にした。
「お父様って、そんなふうには見えなかったけど……」
「今はね、年取って丸くなったよ。かわいそうなのは礼也だ。ああ見えても、礼也はものすごく繊細で、俺とおやじ、それに洋子さんとの微妙な空気を敏感に感じ取っていた。だから、楽器ばかりいじってうさを晴らしていたんだ。ナチュラルを始めるまではあいつはそんなふうでね、一時期、おやじにも洋子さんにも強く反抗していたよ」
「そうだったんだ……」
「仲良し家族に見えるなんて笑えるな。少し前までは内部はそんなふうにめちゃくちゃだったのに」
 彼は、堅い表情を崩して、クスリと笑い、おやじのことは生涯許さないと決めていた、と笑顔で言う。
「だけど、ナチュラルの活動を始めて、おやじと初めて二人きりで飲んだ時、おやじは俺に両手をついて実母のことを謝罪してくれた。その時に、下げられた親父の頭を見て、俺は絶句した。おでこがいつの間にか広くなってしまって、髪にも白髪がいっぱい混じっていたんだよな」
 私はお父さんの顔を思い浮かべた。
 おでこは後ろの方まで進んでいた気がする。頭を下げれば、かなり痛々しいことは容易に想像できた。
「おやじのハゲ頭を見て、あんなに怖かったおやじが、すっごく小さく見えて悲しくなった。俺も大人になって、当時のおやじの言い分も理解できるようになったし、悲願だった母の墓まいりにも連れて行ってもらえて、そろそろいいかげんにおやじを許してもいいかなって」
 それまでは母親の名前を口にするだけでも怒られた、と彼は言う。
 そんなに怖いお父さん? あの会食の時にはずっと穏やかに笑っておられたから、私には想像できないけれど。
「それからは、俺も変わろうって思った。いつまでも、ギスギスした家庭では礼也もかわいそうだし」
「じゃあ、礼也さんが大きくなるまでは、お父さんもお母さんもナチュラルには入っていなかったの?」
 彼は頷いた。
「礼也はね、いつまでもぎくしゃくしている俺たち家族が仲良くできるよう、精一杯考えたんだよ。家の中に閉じこもっている洋子さんに衣装やマスコット制作を依頼して生き甲斐を与えて、イベント企画会社で働いているおやじには、仕事関係の伝手を頼むことで着ぐるみ劇の出演場所を確保して、おやじの顔を立てた。俺が初めて手伝いに入ったとき、あいつら、気持ち悪いくらいに浮かれてた。亜来がこの前見た顔と同じような感じ。滑稽だよなあ、そんなことがうれしいなんてさ」
 熱心すぎた礼也さんの『説明会』のときのご両親の顔。あの人たちは目を輝かせていた。それが異様に見えて、妙にむかついたんだけど。
「ナチュラルはうちの家族だけでやっているわけじゃなくて、他のメンバーもいるし、礼也の手前、俺だけひねくれているわけにもいかないじゃないか。で、おやじと和解して今に至る。これが俺の黒歴史。まともな家族になったのはまだたった半年足らず。これのどこが仲良し家族だよ、ははっ」
 彼が声を出して笑っても、私は笑う振りすらできなかった。彼の家族はあの活動を通して、ようやく確執がほどけてきたところ。
 彼の家族の中での発言力の弱さにいらだちを感じたけれど、今の説明を聞いたら、なんとなくあの家における彼の位置がわかった。彼が言っている話は嘘ではないと思う。
「ナチュラルの活動は、棘だらけの感情を抱いて同居してきた俺たち家族を、一本の太い綱で結んでくれた。亜来に黙っていたのは、活動内容があの通りだから言いにくかったってこともあるけど、俺の家の恥のようなものだから、つい、話すことを後回しにしてしまったんだ。ほんとうに悪かった。ごめんな」
 私は首を左右に振った。
「謝ることなんかないの。私……何もわかってなかったんだね、私の方こそ、ごめん」
「だから俺は、あいつらに活動をがんばりすぎるな、とは言いたくないし、できるだけ協力して好きなようにやってもらえればいいと思っている。俺自身はそれほどナチュラルを熱心にやる気はない。今後も、誘われれば付き合う程度のつもりだったけど、亜来にメールを切られたらさすがに痛かった。ナチュラルは次の公演が終わったらやめるよ」
 私は胸が詰まって、ごまかして咳をした。
 ――私、八年もこの人と付き合っていたのに……。
 物心ついてから新しい母親を迎えた彼。ナチュラルの活動を通して、やっと家族がまとまってきたところだったのに、私は活動が鬱陶しく感じ、彼のことをマザコンだと思ってしまうなんて。彼からのメールを遮断して、彼の話も聞こうともしなかった。
 ――私の方が最低。
 メールを無視することなんか、軽く考えていた。
 返信せずに彼に心配をさせていじわるしたのは私だ。メールを返さなかっただけで待ち伏せなんて怖い、彼はもしかしてDV男かもしれないと、恐怖すら感じてしまった。でも彼は今までにそんな兆候すらなかった。彼は乱暴な男じゃない。ようやく仲良しになった『変』な家族の姿をありのままに私に見せただけ。
 鼻がつんとして目がかすんできた。すぐ横にある彼の腕。
「純也、ごめんね、私、ほんっとにごめんね。純也のことを傷つけるつもりなんかなかったの。少し頭を冷やしたかっただけ」
 ――私、つらかった。着ぐるみ試着会のノリに付いていけなくて。彼が嘘をついていたこともショックで。興味のないことを長々説明されたのも嫌なのに、彼が説明会を打ち切ってくれなかったことも不満で。
 湧いてきた涙が目の中いっぱいになった。
「俺さ、何の事情も話せずにこのまま亜来と別れたら一生後悔すると思って、バカみたいに必死で亜来を捕まえた。冷静になった今思えば、我ながらキチガイじみているな。あれじゃあ、怒ったときに大声を出すおやじと同じだ。どうあがいても俺はあのクソおやじの息子以外の何者でもない」
 彼は唇をゆがめたさみしい笑いをもらした。
「これで、俺が伝えたかった残念な話は終わり。最後まで話を聞いてくれてありがとう」
「……っ」
 とうとう涙がぼろぼろこぼれ出した。お化粧がはげて恥ずかしいのに止められない。
 涙でドロドロになっている顔に彼が触れ、涙を指でぬぐってくれている。この指は私のすべてを知りつくしている。それはずっとずっと私だけのものだと信じていた。今、私が突き放せば、この指は私を離れ、やがて他の女性に触れるのだろう。
 共通の知人の紹介でなんとなく付き合い始めた私たち。大学に入りたての十八歳だったあの頃は、こんな場面は想像できなかった。
「亜来さえよければだけど……来週末にでも、俺たち二人で住む家を探しにいかないか。これからはずっと一緒に暮らしたい。夜、連絡を待ち続けるのは苦しいんだ。昨夜も亜来が心配で眠れなかった」
「……」
 彼が私の顔を覗き込んで返事を待っている。将来を決める大切な返事を。
 今、はっきりわかった。私は、こんなにも純也のことが好き。いつもやさしく私だけを見つめてくれるその瞳が好き。抱きしめてくれる腕も。彼の全部がものすごく好きなんだ。
「亜来?」
 こみあげる嗚咽で何も答えられない。
「なんとか言ってくれよ。泣かれると俺まで悲しくなるじゃないか。やっぱりダメなのかよ」
 ――そんなことないよ、ダメじゃない。
 涙にむせて何も言えずにいると、彼は静かに言った。
「俺のことはすべて話した。それで、亜来がどうしても嫌なら俺は引くしかない。そんなに泣くなら、亜来のこと、今後は追いかけたりしないよ。今日でお別れだな」
 お別れ……現実味を帯びた言葉に心が凍りそうになる。これで終わりなんて。
「私……」
 着ぐるみ家族が付いてくるから、それがどうだって? 彼の家族はやっと打ち解けたところだったのに、それを私がどうこう批判する権利なんてない。
「返信しなくてごめん……私が悪かったの。お別れなんて言わないで」
 こらえきれない泣き声をあげて彼にしがみついた。もう、顔も感情もぐちゃぐちゃだ。
「私、純也のことが好き。大好きだから」
 ――純也と生涯を共にしたい。私とずっと一緒に歩いてほしい。
「私も、純也と――」
 私は彼の暖かな胸に顔をうずめて大声で泣き続けた。

 私は長くベンチの上で彼の腕に包まれていた。こうしていると安心できる。
「ありがとう、亜来。あいつらに振り回されずに、二人だけで楽しい家庭を作ろう。俺は、いつも笑っていられるような家族にあこがれているんだ」
 ――うん。私も、ずっと純也と笑っていたい。
 ねぎらうように私の額に押し当てられた彼の唇はやわらかくて気持ちがいい。
「亜来」
 絡んできた彼の指が私の手の項を撫でる。
「ん?」
 至近距離にある彼の瞳は、いつのまにか熱を帯びていた。私の肩の上にあった彼の右手は、腰へ向かって私の体の線をなぞっていく。ただそれだけのことで体温が上がり、身体がうずき始めた。
「今から亜来がほしいな……」
 誘いの言葉が身体の芯まで染み込む。同意の返事の代わりに目を閉じて唇を差し出した。





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