葉桜の展望台で



4.

 彼からのメール着信を示す黄色のランプは、翌朝も点滅していたが放置しておいた。
 その日の夜になり、彼が仕事から帰ったと思われる時間に、また何度も着信音が鳴った。
「しつこいなあ、もう」
 仕方なく開くと、彼からの数通のメールは、どれも似たような内容で、先日の食事会の謝罪が入っていた。
【どうした? もしかして昨夜のこと怒ってる? みんな、ちょっとはしゃぎすぎたと反省している。あんな家族でごめんな。返信待ってるから】
 ケータイの文面をみるだけでむかつきがよみがえる。
「もう! わかってないね。ストレスがたまったのよ」
【別に怒ってない】
 一行だけの素っ気ないメールを返しておいた。絵文字も顔文字もなし。他に書くこともない。
 即刻彼からの返信が来た。
【返事をくれないから怒っているのかと思った。今度いつ会える?】
 そういえば、昨夜は次の約束もしないで別れたんだった。でも今は、次の約束をするほど浮かれた気分になれない。着ぐるみ大試着会とナチュラル入会勧誘で受けたダメージは大きい。
【忙しいから当分無理。しばらくメールしないで】
 冷たく返信し終わると、ケータイの電源を切った。今週の土日は、ありがたいことに泊まりで社員旅行があり、彼に会わなくて済む。こんな気持ちのままでデートしても、楽しくないに決まっている。
「ボランティアでも着ぐるみ劇でも、そんなに家族を手伝いたいならなんでも勝手にやればいいでしょ。私には関係ないし、いちいち私の許可を取る必要もないし。あんな活動を一方的に押し付けないでよ」
 電源を切ったケータイは鳴らない。点滅しないケータイがそこに置いてあるだけで腹立たしく、通勤用バッグに入れた。気分転換に両手を挙げて大きく伸びをする。
 今は静かに頭を冷やそう。学生時代から続く熱を冷まし、彼との将来のことを真剣に考えるべき時がきている。彼と結婚すれば、あの家族がもれなく付いてきて、ナチュラルの勧誘活動に駆り出されるかもしれないし、着せ替え人形のように扱われること、間違いなし。家族の中では発言力が弱そうだった彼。がっかりしていない、と言えば嘘になる。

 翌日も、その翌日も、ケータイの電源を切っていたら、会社の同僚が朝会うなり、社員旅行の連絡メールを見てくれたか、と聞いてきた。とっさに、ケータイの調子が悪くて、と言い訳した。ケータイを切ったまま生活するのはやっぱり無理らしい。
 ロッカールームに入り、ケータイの電源を入れた。たまっていたメールがどんどん入ってくる。案の定、彼からのメールが何通も。音声着信も数回。彼がこんなに頻繁に一方的にメールを送ってきたことはこれまでにない。
【亜来、会いたい。直接会って話がしたい】
【今どこにいる。いつなら会える?】
【どうした? 話があるんだけど明日の夜にでも会えないかな】
【今日の仕事が終わったらすぐに連絡をくれないか】
【生きてる? 頼むから返信してくれ】
「なにこれ……これじゃあ、まるでストーカー。怖すぎるよ」
 小声でつぶやき、萎えた気分のままいくつものメールに目を通した。

 その日の私の仕事はミスだらけだった。取引先に電話連絡を入れることを忘れただけでなく、提出書類に必要な印を押さずに出してしまうなど散々で仕事にならず、定時に会社を出た。
 ――ダメだなあ、私。
 彼と距離を置きたいと思っているのは自分なのに、たった二、三日連絡を絶っただけで、仕事に支障がでるほどおかしくなってしまうなんて。私はきっと【会いたい】という言葉に惑わされている。
 私も彼に会いたい。でも、会いたくない。会ったら酷い言葉でありったけの不満をぶつけてしまうかもしれない。でも彼のことは嫌いじゃない。ひと時の感情にまかせて子どもっぽい言葉で傷つけることはしたくない。この前はものすごく腹が立ったけど。
 今は、どうしたいのか自分でもわからない。日を空けて冷静になれば、今後、自分はどうすべきなのかがきっと見えてくるはず。頭を左右に振って、脳内の彼の面影を蹴散らした。
 腕時計を見ながらオフィルビルを出ると、まだ五時すぎで外は明るい。気晴らしに、駅ビルで楽しくショッピングしてから帰ろう。

 プラタナスの街路樹が続く歩道を駅に向かって歩いていると、突然背後から呼び止められた。
「亜来」
 知っている男の声に首がすくむ。聞こえないふりをして振り返らず足を速めた。
「待てよ。マジで怒ってるだろ。おいっ」
 後ろから手首をつかまれる。大きな手に引っ張られて、肩にかけていたバッグが滑り落ち、ヒールが脱げそうになった。
「なんで純也がこんな時間にここにいるの」
 彼は忙しい商社の営業職であり、普通は平日のこんな早い時間に仕事を終えてここにいるはずがない。
「今日は早退してきた。メール見てくれた? ちゃんと話をしたいから、今から時間をくれないか」
 Yシャツにネクタイ姿で、見るからに仕事帰りの彼は、つかんでいた手首を離すと、その手で私の肩を抱き寄せて歩き出そうとする。
「ちょっと! 会社の近くでやめてよ」
 さっきまでいたオフィスビルはすぐそこだ。男に肩を抱かれて歩いているのを誰かに見られたら……私はあわてて彼の手を払いのけた。
「人が見てるじゃない」
 足を止めた彼は、鋭い眼光を宿した目で私を見下ろし、痛いほどの力で再び私の手首をつかんだ。
「なんだよ、その態度は。連絡が取れないから心配していたのに。他に好きな男でもできたのか」
「なっ!」
「相手はどこの誰だ。言ってみろ」
「そんなんじゃない。そんな人はいない。誤解しないで」
「じゃあ、なんでそんな冷たい態度を取るんだよ。返信ぐらいしてくれたっていいじゃないか」
「忙しいからメールしないでって連絡したでしょ。いいかげんに手を離してよ」
 つかんでいる手にさらに力が込められたことが分かった。
「俺からのメールを返す暇もないくらい忙しいのに定時退社? 今から誰と会うんだよ」
「今日は、たまたま早く仕事を終わっただけ。誰とも約束してないよ。信じて」
「たまたま定時退社? 嘘つくな」
「嘘じゃないってば」
 彼につかまれている手首がしびれてきた。痛い。彼が怖い。

 私は泣きそうになる気持ちを必死で抑えた。何年も彼だけを見てきたこの私が、浮気を疑われるなんて。だけど、この状況ではそう思われても仕方がなかったかもしれない。
「浮気していないって言うなら、どうして返信くれなかったんだよ」
「それは……」
 心臓が速まり唇が震える。
「理由が言えないのか? じゃあ、俺が言ってやる。俺の家族が不快で、俺と付き合うのが嫌になった……違うか?」
「……離して。痛い」
「離すから今から俺と一緒に来てほしい。どうしても話したいことがあるんだ。駅裏パーキングに車を停めてある」
 何人もの通行人が私たちをじろじろ見ていく。会社に近すぎるこの場所で、いつまでももめているわけにはいかない。
「……わかったわよ」
 やっとそう言った。こんなに強引な彼は今まで見たことがない。彼らしくない荒っぽい言葉遣い。眉を寄せている表情は硬く、逃げることを許さないと顔に書いてあるようだ。
 彼は怒った顔のまま私から手を離すと、先に立って歩き出した。私が付いて来ているか確かめるようにたびたび振り返る。
 私は、返事をせず唇を噛んで下を向いたまま彼に付いて行った。
 体が震え、全身にかいた汗が冷たかった。



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