葉桜の展望台で

 5.

 退院して三カ月が経過。新しい職場とステッキを持つ生活にもどうにか慣れて、将来の計画を立てられるようになった。
 今日は大切な日。
 ステッキを壁に預け、片足立ちで鏡に向かう。
 肩を軽く回して緊張をほぐし、アイロンをかけたワイシャツと濃紺の新品スーツに身を包む。しわがないか確認し、ネクタイのゆがみを直しながら、心の中で何度も練習した台詞を繰り返す。
 
 ――亜来さんと結婚させてください。

 陳腐な台詞だけど、詰まることなく、ちゃんと言えないといけない。
 ご両親に認めてもらえなかったら、どうすれば……駄目だ。そんな不吉なこと、今は考えてはいけない。ありのままの自分でぶつかるだけだ。亜来はこんな自分でもいい、一日でも早く一緒に暮らしたいと言ってくれたのだから。


 ステッキを突きながら駅へ向かう。吹き付ける強めの風が冷たい。入院中に猛暑の時期は終わり、今はすでに十一月。この数カ月はあっという間だった。
 目的の駅で電車を降り、ゆっくりゆっくり進む。新品のスーツ。ここで転んで汚すわけにはいかない。
 ――うう、遠い。
 息が切れてきた。軽い上り坂。車がつぶれる前は、ここが上り坂だと意識したこともなかった。
 何度も車を付けた家の前にようやく到着し、腕時計を確認した。ほぼ予定通り。ハンカチで軽く汗を拭くと、覚悟を決めて呼び鈴を鳴らした。

 亜来が玄関から出てきた。
「えっ、ひとりで電車で来たの? ご家族のどなたかに送ってもらうのかと思ってた。言ってくれれば、私が車で迎えに行ったのに」
「そうしてもらえたら助かったんだけど、駅からどれぐらいの距離があるのか確かめたくて、歩いてみようと思ってさ」
 今日だけは誰の手も借りず、自分の足でここまで来たかった。
 持ってきた手土産の菓子包みを渡すと、亜来は気持ちよく受け取ってくれた。
「ありがとう、上がって。今、お茶を用意するね」
 奥のからも「どうぞ、上がってください」と亜来のお母さんの声がする。
「お邪魔します」
 奥まで聞こえる声で返事をして、玄関に腰を下ろし、靴を脱ぐ作業にかかる。事故前はこんなことが難しいとは思いもしなかった。靴を無事に脱ぎ終わると、亜来が靴をそろえてくれた。

 案内されたのは和室。磨き上げられた長方形の座卓の周りに、四つの座布団が並べられていた。亜来のお母さんが、どうぞ、どうぞ、と座るように促す。もうあとには引けない。
「すみません、正座が出来ませんので、足を伸ばして失礼します」
 挨拶して、転ばないようゆっくりと腰を下ろし、動きにくい右足を座卓の下へ押し込む。崩れた横座りのようなかっこうで行儀悪いけれど、これからもこの家族と集まれば、ずっとこういうスタイルになるだろう。

 やがて、お茶とクッキー菓子、あられなどが並べられた座卓に全員がそろった。
 俺の正面には亜来のお父さん、その隣にお母さん。亜来は俺の右隣に座る。
 ここからが勝負どころ。
 ――ヤバイ。ガッチガチに緊張してきた……
 しっかりしろ。練習通りに言えればうまくいくはず。
 すぅっと息を吸い込む。
「本日は、お時間をさいていただき、ありがとうございます」
 出だしはOK。ご両親はしっかりと俺を見ている。今日は俺が何を言いに来たか、亜来から聞いてわかっているはず。
「入院中のお見舞いもありがとうございました。先日は父が急にお邪魔したそうで、ご迷惑をかけて申し訳ありませんでした」
 軽く頭を下げる。亜来の両親はちゃんと聞いていてくれる。うん、門前払いでもなかったし、大丈夫だ。さあ、本題行くぞ。
「あんな父ですし、こんな体の自分ですが……亜来さんと結婚させてください。自分には亜来さんがどうしても必要なのです。お願いします」
 深く頭を下げた。
 誰も何も言わないけど、気にせず続ける。
「入院中、亜来さんに無理をさせてしまったことは深く反省しています。自分の思いやりが足りませんでした。今後は、もっとよく考えて、亜来さんを幸せにできるよう、できる限りの努力はします」
 ふぅ……とりあえず、言いたいことは全部出した。
 恐る恐る見ると、お父さんは少し眉を寄せ、座卓をにらんでいた。どんなすばらしい男が来ても、気持ちよく娘を手放すことはできないに決まっている。しかも、こんな俺、反対されても仕方がない。お母さんもうつむいてしまっている。
 しんとした中、しばらくしてからお父さんが口を開いた。
「亜来の気持ちはどうなんだ」
 不機嫌そうな低い声だった。
「私の気持ちは決まっているの。そんなこと、この前も話し合ったじゃない。今さら他の人に乗り換えろって言う気?」
「いや、そうではない。うわついた気持ちでの結婚ではうまくいかないと決まっている」
「私、うわついてなんかいない」
「おまえは結婚を甘く考えている」
「あなた、いいかげんにしてください」
 お母さんがお父さんをなだめた。
「芝川さん、失礼しました。夫は心から反対しているわけではないですからね」
 お母さんがとりつくろうような微妙な笑顔を見せた。
「そちらのお父様がここへお越しになった時にね、ご家庭の事情をうかがいまして……いろいろ苦労なさったのですね。お父様の真摯な態度にわたくしどもは心を打たれました。親が子を思う気持ちはこちらも同じです。亜来のことは……心配で仕方がないのですが、お父様も堅実な方ですし、芝川さんが亜来を心から愛おしいと思ってくださるなら……親としては、もう何も言うことは……」
 突然、言葉がかすれた。亜来が驚いて母親を見つめる。
「お母さん?」
「……っ……」
 お母さんは、目頭を押さえて、唇を震わせていた。
「亜来ちゃん……本当に芝川さんのところへお嫁に行くのね? それでいいのね? 結婚式もあげないなんて……」
 亜来がやさしくなぐさめる。
「お母さん、ごめんね。私、それでいいの。早く一緒に暮らしたいから、籍をきちんと入れたい。結婚式は落ち着いてから考えてもいいじゃない」
「……」
「反対されても、私、この人と結婚する。私たち、きっとうまくいくと思うから、そんなに心配しないで」
 お母さんはしくしく泣いている。
「一生独身でこの家にいるわけにもいかないでしょ。ね?」
 お父さんの方は、目をしょぼつかせている。
「お母さん、泣かないで祝福してよ。そんなに純也のことが嫌?」
「そうじゃなくて……さみしい……」
「子どもみたいなこと言わないで。時々遊びに来るから。外国へ行くわけじゃないんだし」
 俺はどんな言葉を出せばいいかわからず、黙ってぺこぺこと頭を下げる。
 座卓の下で、亜来が俺に気を遣って手を伸ばしてきた。指を絡めて応える。やわらかで温かい手。
 これからは彼女を絶対に離さない。
 顔を上げると、なんとも言えない悲しそうなお父さんと目が合った。
「芝川さん、ふつつかな娘ですが、どうかよろしくお願いします」
 ぼそりと言ったお父さんの声は震えていた。
 ホッとする。なんとか結婚の許可をもらえた。
「亜来さんを泣かせるようなことはしません。二人で幸せになります。どうかよろしくお願いします」
 すすり泣きであふれた和室。お父さんはとうとう黒縁眼鏡をはずしてしまった。
 俺はこの家で大切に育てられた娘をさらっていく男。申し訳ない思いで、ただただ下を向くしかなかった。


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