菜宮雪の空想箱

グラスキャンドルライト

現代恋愛、約6000字、覆面企画6参加作品



 どこへ行っても流れるクリスマスソング。今日はイブ。
 二十四歳の独身女、彼氏いない歴四年の私にとっては、クリスマスなんかうれしくも楽しくもない。
 すれちがう幸せそうな男女を見るたび、こみ上げる苦い感情を飲み込む。

 学生時代の後輩の優華に誘われ、ロックバンドのライブへ急きょ行くことになり、待ち合わせの場所へ向かって街中を歩いている。優華が一緒にいく予定だった子が風邪で行けなくなったらしい。名前を聞いたこともない未知のバンドだったが、どうせ私は暇だった。

「ひな先輩、お久しぶりです。来てくださってうれしいですう」
 待ち合わせ場所に現れた優華は、ダウンジャケットを着ているものの、真冬とは思えぬ生足ショートパンツ姿だった。
 マフラーに埋もれ、コートの下にロングセーターまで着込んで背を丸めている私とは対照的で、彼女はすでにハイテンション。声も弾んでいる。
「先輩も、一度でも彼らの生演奏を見たら絶対にバンギャになりますよ」
「そう?」
 二人で会場へ向かって歩く間、バンド事情に詳しい優華は、今日のライブバンド「竜星ミスト」についていろいろ教えてくれた。
 CMソングで人気急上昇した男性五人組ロックバンドで、全国十二会場のワンマンツアーチケットは完売。今日は特別日で、会場限定販売のCDを買うと、なんとその場でメンバーと握手ができるという。
「今夜のチケット獲得は超激戦でしたよ。会場のキャパが少ないのに特日で」
 私はこういう小規模のライブハウスへ行ったことは一度もなく、驚いてばかりだった。
「へー、そうなんだ」

「ここの地下です」
「こんなところにホールがあるの?」
「下は結構広いですよ」
 居酒屋かと思うようなビルの地下への階段入り口に、ライブ案内の立て看板があった。ギターやベースなど、楽器を手にした男性五人が横並びになったポスターが貼られている。全員が髪を染め、カラコン、でか目メイク姿。ロン毛もいる。カジュアルな着こなしのチャラそうな男たち。
 その中の一人、ギターのロン毛男に目が留まった。
「ひな先輩は誰がいいですか? あたしはボーカルのテツ押しですけど、ドラムのトオルもイケメンだし」
 私はあまり聞いていなかった。
 似ている。そっくり。
「このギターのお兄さんって……」
「この人はタク。曲のほとんどはこの人が作っていて、彼がリードボーカルをやる曲もあるんです。イケボですよ」
 タクって、卓巳君?
 やっぱり他人の空似じゃない、本人だ。
 なつかしくも思い出したくない男。こんなバンドをやっていたのか。


 彼氏だった卓巳君が、いきなり別れ話を出したのは四年前のクリスマスイブのことだった。
 彼の部屋のローテーブルの上に、手のひらサイズのクリスマスツリーを飾り、赤いグラスキャンドルを灯した。買ってきたケーキを分け合い、二人で迎えたクリスマスイブ。
 グラスキャンドルの炎がわずかに揺れながら彼の顔を照らす。ケーキを食べ終えた彼は、私と肩を並べて座ったまま、長い間無言で炎を見つめ続けていた。
 私はあの日、彼に初めて身をまかせるつもりだった。私は彼が寄り添うきっかけを探していると思い、彼に合わせて炎をぼんやり眺めていた。
 炎が揺らぎ、グラスのろうが少しずつ減り、二人だけの時が確実に進む。
 無言の部屋で緊張が徐々に高まる。これが消えたら。
 心音まで聞こえそうな静けさの中、残り少ないグラスキャンドルを眺めながら、彼は口を開いた。
「ひな……オレ、内定断った」
 思いもしなかった話だった。
「エエッ! もったいない。あんなに苦労して内定もらったのに。もしかしてブラック企業だった?」
「そうじゃなくて」
 彼は言いにくそうに下を向いた。
「オレ、どうしても音楽をあきらめられないから、今月末にこの部屋を引き払って東京へ行くことにした」
「ちょっと! あと何日もないよ。大学はどうするの」
「休学届けを出した。一年頑張っても芽が出なかったら復学する。東京行きは、秋には決めていた。内定が出た時にひながものすごく喜んでくれたことを思うと、なかなか言えなくてさ」
「言いにくい話ってことはわかるけど、よりにもよって今日言うことじゃないよ。もっと早く言えばよかったのに」
「ゴメン。オレ、あんな会社に就職しなくてよかったって思えるぐらい音楽で稼げるように勉強する。寝る時間を削ってでも努力するから」
 彼は絞り出すような声で告げた。
「オレと別れてほしい」
「え」
 崖から突き落とされ、さらにその上から石を投げつけられたような衝撃に、鼻の奥が急に痛くなった。
「何で急に……卓巳君が東京へ行ったらさみしいけど、別れなくても」
 私の唇は尖っていたかもしれない。さぞかし醜い顔になっていたことだろう。
「オレ、遠距離恋愛は無理だ。今はひなが大好きでも、そのうちに、そばにいてくれる人の方がよくなってしまうかもしれない」
「そんなの東京へ行ってみないとわからないじゃない。最初から浮気宣言?」
 卓巳君はまた謝罪して私に深く頭を下げた。
 私は膝の上にある自分の両手を強く握りしめた。「私なんか簡単に捨てればいいって思っていたんだね」
 彼は首を大きく横に振った。
「ひなのことは大切だけど、自分に自信がない。オレはいつも目の前のことしか見えないから」
「自信がないなら、東京になんか行かなければいい」
「学祭の直後に芸能事務所の人から正式な誘いがあったんだ。住む部屋を用意してもらえて、ボイトレと作曲指導の先生を紹介してくれるって」
 彼は軽音楽部所属で、ギターはほどほどに弾けて歌もうまかった。だからといって、誰でも簡単にプロになれはしない。プロ並みの腕を持つ素人など世の中には星の数ほどいる。
「ねえ、それ、お話がうますぎない? たぶん騙されてるよ」
「事務所のことは大丈夫、ちゃんと確認した。オレ、自分を試してみたいんだ。売れるかどうかはわからないけど、こんなチャンスはもうない」
「そうなんだ」
 彼がひどくつまらない人間に見えてきた。大切なことを私に相談もなしで勝手に決めるなんて。
「私と別れたかった?」
 彼の歪んだ唇から何度目かの「ゴメン」という言葉が落ちた。
 私は立ち上がって荷物をつかんだ。
「わかった。勝手にすれば? いいよ、希望通り別れてあげる。東京の垢抜けた子とラブラブできれば最高だね」
 彼の部屋を飛び出し、早足で歩きながら自宅に電話した。
「もしもし、お母さん? 今日ね、友達の家でクリスマスパーティやるから泊めてもらうって言ったけど、その子が風邪引いちゃって中止になったから、今から家に帰るね」
 用件だけ言ってすぐに電話を切る。ケータイを握る手は震え、涙が口に入りそうになっていた。
 無様。みじめ。そんな言葉が、勝負下着まで身に着けた私にはぴったりだった。
 冷たく強い風が吹き荒れるクリスマスイブの夜。
 温め合うつもりでいたあの日、家に帰った私は、初めて彼のことで声を上げて泣いた。
 大学のゼミで出会い、意気投合して付き合ってわずか半年。二十歳の冬だった。

 結局、彼は一年たってもゼミには現れなかった。大学は中退したらしい。
 この四年間、近況メールすらなく、振られた自分からは連絡できず、彼とは完全に切れた。
 今でも時々、自分では処理できない感情が突き上がってきて胸を焼く。
 私はイブの夜に切り捨てられた女。恋人として彼の夢を応援することすら許されなかった。
 恋をしていたのは私だけだったのかもしれない。
 だからクリスマスなんか嫌いだ。


 竜星ミストのギタリスト、タク。
 間違いなく私の元カレだ。
 こんな形で彼の消息を知ることになるなんて。

 
 優華はさっさと会場への階段を降りて行く。
「あそこへ並びますよ」
 優華に促され、階段の途中まで伸びている物販の行列の最後尾に並んだ。メガホンを持った男性が案内をしている。
「本日限定販売CDの購入特典で、お好きなメンバー一名と奥で握手できます。なお、枚数と時間に限りがあり……」
 私たちは、それほど待たずに物販コーナーにたどり着いた。
 優華は限定CDをさっそくゲットし、さらにツアーロゴ入りタオルを手に取っている。
「ひな先輩、買わないんですか?」
「そうだね、せっかくだから、私も限定CDを買おうかな」
 彼と握手できるなら買ってみよう。
「わーい、先輩もこれで竜星ギャの仲間入りですよ」
 CDを買い、さらにテンションが上がっている優華にひっぱられ、奥の握手コーナーへ進んだ。
 優華はテツの方へ、私はタクの方へ、分かれて並ぶ。

 彼とうまく話せるだろうか。
 落ち着かないまま列が一歩一歩進み、自分の番が来て、のれんをくぐった。

 タク。
 かつて好きだった男が机越しに立っていた。
 狐色に染めた彼の髪は肩まであり、化粧をしてさらに大きくなった目は、青いカラコンで彩られている。
 彼は私を見るなり、目を大きく開いて数回瞬きしたが、すぐに爽やかな笑みを作って手を差し出した。
「CDを買ってくれてありがとう」
 私は汗ばんだ手を彼と絡めた。
 彼はつながった右手の上から自分の左手をかぶせて、私の手をすっぽり包み込んでくれた。
 彼の手も少し湿っている。
 触れたくて、触れてほしくて仕方がなかった彼の手。
 私たちは手つなぎとキスまでしかしていない。
 見つめ合えば、時があの頃に戻っていく。

  
 卓巳君。
 会いたかった、会いたかったよ。
 
 振られた日の苦い記憶が一瞬で押し流され、せつない渦が眩暈を呼び込む。口が渇き、胸苦しさでむせそうになる。
 
 ずっと卓巳君の声を聞きたかった。
 元気だった?
 今は幸せ? 
 彼女はいるの? 
 私ね、ちゃんと就職できたよ。
 
 話したいことが山ほどあるのに、手をつないだ瞬間に、用意したいくつもの問いかけは吹き飛んでしまった。それでも今話さないと後はない。どうにか言葉を出す。
「ひ、久しぶりだね。私を覚えてる?」
「大学の同じゼミの後輩。よく知っているやつだ」
 笑顔の彼は私の近況をたずねもしない。彼にとっての私はそんな程度の存在で、二人だけの思い出はすでにリセットされているのか。
 私はどんな言葉を期待していたんだろう。こんな男に未練がましい自分を見せたくない。私も笑顔で対応してやる。
「チケット完売、おめでとう」
 今度はさっきよりもはっきり言えた。
「ありがとう。今日は全力で頑張るから最後まで聴いていって」
 スタッフが時を切った。
「はい、お時間です」
 手は簡単に離れてしまい、再会の時はあっさり終わった。


 ライブが始まり会場は熱気に包まれた。
 耳が痛くなりそうな大音量の中、リズムに合わせて無数の手が花を咲かせ、歓声が飛びかい、メンバーの汗が飛び散る。私は何もせずに棒立ちでずっとタクばかりを見ていた。
 間奏のギターソロで前に出る彼が眩しい。以前よりもギターの腕は上がり、コーラスでも音を外さない。
 かっこ良すぎる。顔が火照り、涙が目にたまってきた。


 やがてアンコールの演奏まで終わった。
 止まないアンコールの声援が続く中、スタッフが、幕が下りてすっかり細くなった舞台の上で動いている。
 優華が話しかけてきた。
「先輩、たぶん次が本当のラストソングで、タクのソロ弾き語りだと思いますよ。ほら、マイクスタンドとイスが前にきたから」
「タクだけ? 他のメンバーは演奏しないの?」
「その間に片付け搬出をすると思います。会場によってですけど、撤収時間の都合があるらしくて」
 そのとき、きゃー、と悲鳴に近い歓声が周囲から上がり、メンバーたちが舞台袖から元気に飛び出してきた。
「Wアンコールありがとう!」
 メンバーは舞台の端から端まで手を振って歩き回った後、タクだけを舞台の上に残してはけた。
「ほら、やっぱりタクのソロですよ」
「う、うん」
 タクがアコースティックギターを持ち、用意されたマイク前のイスに座る。
 暗い中でスポットライトに照らされた彼は、かけられる黄色い声に片手をあげて笑顔で応えた。
「今日はイブだから限定CDに入れたクリスマスソングをやります。聴いてください『グラスキャンドルの炎は消せない』」
 ゆっくりテンポのバラードが始まり、総立ちの会場に彼の声がしみ込んでいく。



   君と買ったグラスキャンドル
   ミニツリーを照らす炎
   イブの夜 二人きりの部屋で
   揺らぐ炎を一緒に見ていたね
   長く 長く 二人で

 
 思わず空気を飲み込む。なにこの歌詞。嫌な曲。私を傷つけた日のことを歌にするなんて。
 イブの夜にあんなことを言われたくなかった。

 
   僕は夢を追いたくて
   君のキャンドルを消したのさ
   君のすべてを奪ってしまわないうちに
   君をこれ以上好きにならないように
   愛しすぎたら 僕は何もできなくなる
   
   言ってくれ グラスキャンドル
   別れを選んだ僕に
   あの日の選択は正しかったと
   叱ってくれ グラスキャンドル
   揺らめくその炎で
   僕の癒えぬ傷など小さなことだと

   二人で灯したグラスキャンドル
   あの炎はもう消えたけど
   消せない炎が今も胸に残るよ
   僕はひとり天井を見上げる
   いつか僕が夢をかなえたら
   君ともう一度


 卓巳君……卓巳君。
 あなたも苦しんでいたの?
 私、ショックだった。今だって。 
 涙で彼がぼやけていく。
 

   
   言ってくれ グラスキャンドル
   君よりも夢を選んだ僕に
   後悔するなと
   さみしいよ グラスキャンドル
   どうか乾かしておくれ
   いつまでも止まらない僕の涙を

   君と離れても
   僕の心のキャンドルは
   消せはしなかったのさ
   Still……
   I love you



 歌い終えた彼が立ち上がると、会場は大きな拍手と声援に包まれた。
「ありがとう、みんな。また会おうね」
 彼が舞台袖に消えていく。

 卓巳君……!

 滝のように流れ出る涙をハンカチで押さえながら、背伸びで片手を振りまわして見送った。

 アンコールの手拍子が止まない中、客席は点灯されライブ終了のアナウンスが流れてしまった。
「はー、終わっちゃいましたね」
「優華ちゃん、誘ってくれてありがとう。すごくよかった。泣けちゃった」
「あたしもウルウルですう。竜星ミスト最高だと思いません?」
「うん、今夜は眠れそうにない」


 ライブの余韻に浸りながら会場を後にする。
 冬の夜の透明な空気を思いきり吸い込む。風は冷たいけれど、マフラーも手袋も必要ない。
 歩いている途中、メール着信音が鳴ったような気がしてスマホを取り出した。

 会場に用意されていたアンケート用紙にタクへのメッセージを残してきた。
 ライブ成功の祝い言葉の後に、私の名前と現在のメルアドを記入。
 私の心のキャンドルが彼に届きますように。
 あの歌のみたいに、いつか幸せな夜を二人で迎えたい。 

 スマホを確認してコートのポケットへしまい、限定CDが入ったバッグをギュッと抱きしめた。

 


 【着信なし】



 泣かない。私は平気。
 彼、今は忙しくてすぐには連絡できないだろうし、まだアンケートを見ていないかもしれない。
 彼が、今も恋愛と音楽の両立が無理だと考えているか、すでに恋人がいたら、彼からのメールは来ない。
 

 優華と別れ、しばらく歩いていると、またスマホが鳴った気がして、急いでポケットから取り出した。



 あふれる涙を指で捨てる。
 今日、元カレに会えて本当によかった。
 
 街路樹のイルミネーションがにじんで見えた。


      了




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